百年の間に出で給いし竜樹菩薩・天親菩薩等〓く如来の聖教を弘め給うに天親菩薩は先に小乗の説一切有部の人・倶舎論を造つて阿含十二年の経の心を宣べて一向に大乗の義理を明さず次に十地論・摂大乗論・釈論等を造つて四十余年の権大乗の心を宣べ後に仏性論・法華論等を造りて粗実大乗の義を宣べたり竜樹菩薩亦然なり天台大師・唐土の人師として一代を分つに大小・権実顕然なり余の人師は僅かに義理を説けども分明ならず又証文たしかならず但し末の論師並に訳者・唐土の人師の中に大小をば分つて大にをいて権実を分たず或は語には分つといへども心は権大乗のをもむきを出でず此等は不退諸菩薩・其数如恒沙・亦復不能知とおぼえて候なり。
疑つて云く唐土の人師の中に慈恩大師は十一面観音の化身牙より光を放つ、善導和尚は弥陀の化身口より仏をいだすこの外の人師通を現じ徳をほどこし三昧を発得する人世に多しなんぞ権実二経を弁へて法華経を詮とせざるや、答えて云く阿竭多仙人外道は十二年の間耳の中に恒河の水をとどむ婆籔仙人は自在天となりて三目を現ず、唐土の道士の中にも張階は霧をいだし鸞巴は雲をはく第六天の魔王は仏滅後に比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷・阿羅漢・辟支仏の形を現じて四十余年の経を説くべしと見えたり通力をもて智者愚者をばしるべからざるか、唯仏の遺言の如く一向に権経を弘めて実経をつゐに弘めざる人師は権経に宿習ありて実経に入らざらん者は或は魔にたぼらかされて通を現ずるか、但し法門をもて邪正をただすべし利根と通力とにはよるべからず。
文応元年太歳庚申五月二十八日 日蓮花押
鎌倉名越に於て書き畢んぬ
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うべきを悲み給いて座をたたしめ給いき、譬えば母の子に病あると知れども当時の苦を悲んで左右なく灸を加へざるが如し、喜根菩薩は慈の故に当時の苦をばかへりみず後の楽を思いて強いて之を説き聞かしむ、譬えば父は慈の故に子に病あるを見て当時の苦をかへりみず後を思ふ故に灸を加うるが如し、又仏在世には仏法華経を秘し給いしかば四十余年の間等覚不退の菩薩名をしらず、其の上寿量品は法華経八箇年の内にも名を秘し給いて最後にきかしめ給いき末代の凡夫には左右なく如何がきかしむべきとおぼゆる処を妙楽大師釈して云く「仏世は当機の故に簡ぶ末代は結縁の故に聞かしむ」と釈し給へり文の心は仏在世には仏一期の間多くの人不退の位にのぼりぬべき故に法華経の名義を出して謗ぜしめず機をこしらへて之を説く仏滅後には当機の衆は少く結縁の衆多きが故に多分に就いて左右なく法華経を説くべしと云う釈なり是体の多くの品あり又末代の師は多くは機を知らず機を知らざらんには強いて但実教を説くべきかされば天台大師の釈に云く「等しく是れ見ざれば但大を説くに咎無し」文・文の心は機をも知らざれば大を説くに失なしと云う文なり又時の機を見て説法する方もあり皆国中の諸人・権経を信じて実経を謗し強に用いざれば弾呵の心をもて説くべきか時に依つて用否あるべし。
問うて云く唐土の人師の中に一分一向に権大乗に留つて実経に入らざる者はいかなる故か候、答えて云く仏世に出でましまして先ず四十余年の権大乗・小乗の経を説き後には法華経を説いて言わく「若以小乗化・乃至於一人・我則堕慳貪・此事為不可」文文の心は仏但爾前の経許りを説いて法華経を説き給はずば仏慳貪の失ありと説かれたり、後に属累品にいたりて仏右の御手をのべて三たび諫めをなして三千大千世界の外・八方・四百万億那由佗の国土の諸菩薩の頂をなでて未来には必ず法華経を説くべし、若し機たへずば余の深法の四十余年の経を説いて機をこしらへて法華経を説くべしと見えたり、後に涅槃経に重ねて此の事を説いて仏滅後に四依の菩薩ありて法を説くに又法の四依あり実経をついに弘めずんば天魔としるべきよしを説かれたり故に如来の滅後後の五百年・九
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らん、其の上仏も四十余年の間・法華経を説き給はざる事は若但讃仏乗・衆生没在苦の故なりと在世の機すら猶然なり何に況や末代の凡夫をや、されば譬喩品には「仏舎利弗に告げて言わく無智の人の中に此の経を説くことなかれ」云云此等の道理を申すは如何が候べき、答えて云く智者の御物語と仰せ承り候へば所詮末代の凡夫には機をかがみて説け左右なく説いて人に謗ぜさする事なかれとこそ候なれ、彼人さやうに申され候はば御返事候べきやうは抑若但讃仏乗・乃至無智人中等の文を出し給はば又一経の内に凡有所見・我深敬汝等等と説いて不軽菩薩の杖木瓦石をもつて・うちはられさせ給いしをば顧みさせ給はざりしは如何と申させ給へ。問うて云く一経の内に相違の候なる事こそよに得心がたく侍ればくわしく承り候はん、答えて云く方便品等には機をかがみて此の経を説くべしと見え不軽品には謗ずとも唯強いて之を説くべしと見え侍り一経の前後水火の如し、然るを天台大師会して云く「本已に善有るは釈迦小を以て之を将護し本未だ善有らざるは不軽大を以て之を強毒す」文・文の心は本と善根ありて今生の内に得解すべき者の為には直に法華経を説くべし、然るに其の中に猶聞いて謗ずべき機あらば暫く権経をもてこしらえて後に法華経を説くべし、本と大の善根もなく今も法華経を信ずべからずなにとなくとも悪道に堕ちぬべき故に但押して法華経を説いて之を謗ぜしめて逆縁ともなせと会する文なり、此の釈の如きは末代には善無き者は多く善有る者は少し故に悪道に堕ちんこと疑い無し、同くは法華経を強いて説き聞かせて毒鼓の縁と成す可きか然らば法華経を説いて謗縁を結ぶべき時節なる事諍い無き者をや、又法華経の方便品に五千の上慢あり略開三顕一を聞いて広開三顕一の時仏の御力をもて座をたたしめ給ふ後に涅槃経並に四依の辺にして今生に悟を得せしめ給うと、諸法無行経に喜根菩薩・勝意比丘に向つて大乗の法門を強いて説ききかせて謗ぜさせしと、此の二の相違をば天台大師会して云く「如来は悲を以ての故に発遣し喜根は慈を以ての故に強説す」文・文の心は仏は悲の故に後のたのしみをば閣いて当時法華経を謗じて地獄にをちて苦にあ